書評 第1回   泉鏡花「夜行巡査」
 この物語は不思議な構成をしている。文章が大きく3つに分かれていて、それぞれ巡査八田義延の関った人間について書かれているが、物語に描かれ ているその夜を時間に沿って記しただけである。職務を忠実に遂行する巡査の心理は描かれず、中心として描かれているのは彼に関係した人間達のやる せなさだとか陰口に似た批判である。時代背景から見て、この物語を情を失った職務勤勉過度への批判だとも採れるし、ちょうどこの時期に起こった日 清戦争への痛烈な批判にも採れる。前者の場合は物語全体の意図が明らかであり、登場人物が巡査から受ける感情がそのまま批判として読者に与えられ る。後者の場合、巡査を戦争に赴く兵隊の比喩としてその職務の絶対性、人間性の無さ、死を厭わない精神を表し、女性を恋人を戦争に取られた残され たものとしての悲しみ、やるせなさを表し、暗く黒い大きな川に落ちてしまう老人は国家であり、口うるさく殺したいほどの存在として表されている。 つまり彼は国家に尽くす兵士であり、国家のために大きな流れ(すなわち戦争)の中に飛び込み、戦い方を知らない彼は命を落とす。そして状況に抗う ことの出来なかった残されたもののやるせない結末で幕を閉じる事で戦争を強く批判するという流れである。ただ、前者と後者いずれにしても具体性を 欠き、はっきりと表現したものを明らかにしていない。文章の途中で巡査のことを怪物と表現することによって融通の利かない社会を批判しているとも 採れるし、社会が観念小説としてこの小説を捉えるには不十分に過ぎないだろうか。最後の部分で社会の巡査に対する評価とそれに対する疑問を投げか け、物語の意図は明らかにされることはされるが、伝わりにくい。最低限、泉鏡花が表現する必要があったのは、巡査に対して受身としての登場人物た ちの感情であり、この構図からすれば、世の中への批判的精神は読み取れる。この点で社会からは観念小説として受け入れられたのだろうと考えられる。
 ただ、一旦登場人物を中心に捉えてしまった瞬間の巡査の存在感が恐ろしい。感情を表に出さない(自分の感情は考慮されない)言葉の裏にある人間 臭ささえも見えてくる。何かの回想シーンのようにこの物語に音に関する表現はほとんど無く、無音の闇に暗き制服の警官がひとり、前をひたすら見つ めて歩くのである。過去も未来も無く、ただ死へ向かって一直線に。老人が落ちて彼が飛び込んだ瞬間にも音は無く、黒い川がさらなる幻想性を導き、 水に映った人間の心理の深いところを映写する。しかしながら、提灯の明かりは一方向のみしか照らせず、薄明かりの中、大きな川は依然として揺るが ず、やがて波紋一つ無い静かな流れへと帰っていく。この絶望感。



論文 第2回   「宗教学」
序:

 宗教に対してどう接していけばいいのか。これが問題である。信仰の是非や、その理由は殆どが問題ではない。お互いに人間であることは確かであり、 全ての人間がそれぞれ自己の思想に基づいて生きている以上、不当な干渉や不法な侵害がなければ問題はないのである。 もちろんそれらがあれば法の下に彼らの思想がどのようであれ罰せられるのは当然のことである。誰もが人間である。
 宗教と向かい合うためには彼らを知ることは重要である。宗教はそれを抜きに考えた世界においておよそ一般的ではない。 だからこそその差異を明らかにして未知である恐怖を避け、偏見を捨てることが必要になってくる。許容するのか拒絶するのかを考えるのはそれからだ。 私が宗教に対して思うところを大きく3つに分けて、それぞれについてまとめていこうと思う。 そして最後にまとめとして以下@Bを踏まえての私見を述べてこの文を終える。


本:

@ 宗教は歴史的に、より大きな範囲を内包する平等を試みることが多い。それまでの思想に対してその範囲が信じられていたとしても 異端の思想において一瞬で宗教が対象とする存在の範囲が大きく広がることが歴史上多々あった。古代ギリシャの外部に対する偏見の解消や万民法に見られる 人間全体への共通点の発見がそれであった。こういった傾向は現在においても連綿と続いており、ごく小さな変化で宗教的であるとは言えないが 今回のワールドカップにおいてもそのような変化はあった。外部の人間に対して対等な何かを見出すことである。この流れは宗教においては神に対して 一列横隊を形成する統一的な流れと解釈されるのは当然の帰結である。宗教を信仰する人間にとっても信仰しない人間にとっても相手を知ることは少なからず 自らとの共通点を外に発見する機会である。この繰り返しの上に、この流れは宗教の領域に留まらず日々拡大していく。
 学者W・ノーマン・ブラウンが問うた様に誰を神の下に自らと同等の位置に置いているかを提起したときに得られる回答が歴史の流れに沿って拡大しているとの 印象を受けた。現在はそのもっとも先端として、過去の歴史上その傾向が最も強く大きい。これについてこの先さらに広がる可能性もあれば、狭まっていく可能性も あると思う。まだ隙間は十分にあるし、各人が各々の体に別々の心を持って生きている以上、人間同士は永遠につながることはない。他の存在についても同様である。 殊に人間についてはである。だからこそこの間隙に人間は純粋な統一を望む。神の下に闘争無き絶対的統一の美しさを願う。宗教とはそれらを目指す指標としての 記述なのかもしれない。

A 宗教はそれぞれ形成された環境によって大きく異なる。人間の数だけ、地球の広さの分だけ多岐に亘る。しかし、宗教はそれであっても 共通する部分を有することが殆どである。これは宗教の形成に関して人間の本質が大きく関っていることを示しているのではないだろうか。例えば、キリスト教における 黄金率と孔子における恕の精神であるとか、モーセの十戒における殺人の禁止と仏教の五戒における不殺生がそれである。そのほか、もっと大きな領域での共通が 見られることは「神」という概念の形成である。異なる言語で生きているにもかかわらず、多くの人間が「神」に行き着いてしまう。
 神へとたどり着いてしまう原因。これは、人間の脳みそがこの世のあらゆる不可思議に対して何らかの必然性を感じてしまっていることにあるのではないかと思う。 運命という言葉が存在することも示している。人間は人間のレベルではどうにもならない作為めいた抗えない流れを想起する。この絶対的であまりにも大きく、 この世の不可思議に対する回答となるような概念を形成し、それに「神」という名をつけるのである。それが信仰の対象となる原因は自然と大きく関係するのではないかと 考える。自然の圧倒的景観が感じさせる完全とも思える作為性と自然の理不尽な攻撃性と圧倒的な恵みのさも必然的であるかのように一方的な様が、 人間に神を感じさせるのである。生きていく為のには自然は恐怖であった。そのため、神に祈ることで環境のよりよきを願ったのである。

B 宗教は一定の秩序への服従である。その秩序に各個人は糸でがっしりと結ばれている。これは拘束力ではなく、彼が大地に立つ為の礎である。 しかしそれはその宗教的な記述の外に彼が一歩外に出てまうと時に、思考停止ともいえる世界に対する干渉・浸食が生じてしまうことになる。 周囲の環境を理解し一定の倫理にしたがって公序良俗の下に生きていればなんら問題はないが、宗教の記述の価値が彼において倫理を上回ってしまうと とても危険なのである。純粋で一貫しているからこそ思考が停止し、周囲と共存できなくなってしまう。これが宗教を持たない人間の恐怖を感じる所以であると考える。


結:

 人間は常に二人以上だという前提において人間であり、大きさのレベルは多々あれどそれらは社会を形成する必然性がある。各人が関係を持つのに 彼ら自身の思想や慣習、環境、状態は左右しないわけではないが、しかし全員が全員人間である。彼の思想が宗教であれ、それ以外であれ人間個人が持つ 思想の差異として程度が大きいか小さいかの違いでしかない。宗教が関係しようがしまいが、これは人間同士の関係の問題であると認識するべきであると私は考える。 社会の形成と宗教の形成はほぼ同型であり、ある種の必然性を持っている。この点は否定のしようがない事実であり、無視できない。が、あまりたいした問題でない。 人間同士気兼ねなく生きればいい。



一つ戻る      最初の頁に戻る


inserted by FC2 system