第1回   平清盛について
平清盛はとても優しい人です。家来が何か失敗をしても、
皆がいるところで叱ったりせず、あとでこっそり呼んで注意したといいます。
また、屋敷を警備している兵士が眠ってしまった場合でも
起こすようなことをせず、布団をかけてやったといいます。
しかし、この優しさが平治の乱の後、源義朝の子供達を助け、
それが平家の滅亡につながっていくことになります。
平家物語では、清盛はずいぶん悪く書かれていますが、
これは「おごれる人も久しからず」を強調するためのものでしょう。
福原遷都だって、平家物語では清盛の愚作ということになっていますが、
長期的な視点から見れば、盆地にある京よりも海に面している福原の方が
経済都市として発展する可能性は大きいと思います。
清盛にとって不運だったことは同時代の人に理解者がいなかったことです。
だから後の世では悪く書かれることになってしまったと言えます。



第2回   平重盛について
平重盛は平清盛の長男で、母は二位尼ではなく高階基章の娘です。
平家物語では「忠臣孝子」の話で有名で、立派な人物として描かれています。
しかし、史実では殿下乗合事件で松殿基房に対して報復攻撃をさせたのは
清盛ではなく、この重盛だといいます。
この頃の清盛は福原にいて、この事件には無関係でした。
そして、事件の話を聞いた清盛は、基房と重盛の仲裁に乗りだしています。
これはとある公家の日記に書かれている話ですが、
「温厚な重盛公としては珍しいこと」とも記されているので、
普段は温厚な人物だったことは間違いないようです。
「忠臣孝子」で知られる重盛も、やはり人の親ですね。



第3回   平維盛・資盛について
平維盛は平重盛の嫡男で、母は宮中に仕える女官だったといいます。
維盛は平家の嫡流ですが、重盛亡き後の家督は叔父の宗盛に渡ります。
これは私の個人的な意見ですが、維盛が宗盛よりも
朝廷の位が低かったから、このようなことになったのでしょう。
また、維盛は家族を都落ちには同行させませんでした。
これは維盛の妻が藤原成親の娘だったからだと思われます。
一方、平資盛は平重盛の次男で、母は藤原氏の娘です。
実は北条氏の御内人で内管領にまでなった平頼綱や長崎円喜は、
系図上では、この資盛の子孫ということになっています。
また、あの織田信長までも系図上では資盛の子孫なのです。
これは驚きです。ただ、信長の場合はでっち上げの可能性が高いです。
ちなみに二人の弟、清経、有盛、師盛、忠房の母親は藤原成親の妹です。



第4回   平基盛について
平基盛は平清盛の次男で、母は重盛と同じ高階基章の娘です。
保元・平治の乱で活躍しましたが、その後、若くして亡くなっています。
一説には宇治川で溺れ死んだともいいます。
この説は基盛の夭折が、保元の乱で敗れた崇徳上皇と藤原頼長の
怨霊であることを強調するために生まれたものだと思われます。
また、基盛の子供で歌人でもある行盛は、
壇の浦の合戦で従兄弟の資盛、有盛と共に入水しています。
そして、鉄砲伝来で出てくる種子島一族は、
系図上では、この行盛の子孫ということになっているのです。
マイナーな基盛ですが、その血筋は意外な所につながっています。
ちなみに高松市にある平家物語歴史館には、
このマイナーな基盛のろう人形が展示されています。



第5回   平宗盛・知盛について
平宗盛は平清盛の三男で、母は二位尼時子です。
重盛、清盛亡き後、平家の総帥になった宗盛ですが、
平家物語では、いいところがほとんどありません。
壇の浦では海に飛び込めず、家来に落とされて源氏に捕まってしまうし。
源平盛衰記では、宗盛は実は傘屋の子ということになっていますが、
重盛を二位尼時子の子としている時点で信用ができません。
一方、平清盛の四男で、宗盛の同母弟の知盛は、
平家物語では、宗盛と対称的に良く描かれています。
ちなみに幕末まで対馬を支配することになる宗一族は、
系図上では、この知盛の子孫ということになっています。



第6回   平経盛・教盛について
平経盛は平忠盛の三男で、母は貴族の源氏の娘です。
したがって、清盛の異母弟となります。
一の谷の戦いでは経正、経俊、敦盛と、三人の息子を失っています。
経盛の子供はこの三人が有名ですが、他にも子供はいたようです。
この経盛は官位を授かったのは二十代後半と遅く、
昇殿も弟である、頼盛、教盛に先を越されています。
母親の身分が関係していたのでしょうか。
一方、平教盛は平忠盛の四男で、母は藤原氏の娘です。
言うまでもなく清盛の異母弟で、兄の経盛と共に清盛を支えました。
教盛には通盛、教経、忠快禅師、業盛といった子供がいますが、
やはりいちばん有名なのは能登守教経でしょう。
平家物語では、教経は壇の浦の合戦で壮絶な最期を遂げていますが、
吾妻鏡によると一の谷で捕らえられたことになっています。
したがって、平家物語の教経の最期は創作の可能性が高くなりますが、
一の谷で捕らえられた教経は偽者であるとしている文献もあるので、
結局、どちらが本当なのかはよくわかっていないようです。



第7回   平頼盛について
平頼盛は平忠盛の五男で、母は池禅尼宗子です。
池禅尼宗子は忠盛の正室ですので、
父の忠盛からは嫡男の清盛と同等の扱いを受けています。
池禅尼宗子は清盛に源頼朝の助命を頼んだことで有名です。
夭逝した忠盛の次男で、自分の子供の家盛に似ていると言ったのです。
家盛は正室の子で、清盛と歳も近かったといいますから、
夭逝しなかったら平家一門の家督相続において、
長男でも側室の子である清盛の強力なライバルになったことでしょう。
頼盛は平家都落ちには同行しませんでした。
これは頼盛が母親の件で平家一門から孤立したためと言われていますが、
倶利伽羅峠の戦いで、自分の子の為盛が討死にしたということも
見逃せないと思います。これ以上自分の子を戦死させないため、
都落ちに同行しなかったのではないかと私には思えるのです。



第8回   平忠度について
平忠度は平忠盛の末子で、実は重盛や基盛よりも年下です。
藤原俊成に師事し、和歌の道にも優れた武将だったといいます。
交通機関を無賃乗車するという意の「薩摩守」は、
「ただのり」の官職が薩摩守だったところからきています。
この忠度は一の谷で岡部六弥太によって討ち取られました。
実は岡部六弥太は忠度を討ち取ったものの卑怯な手を使ったとされて
故郷に帰れず、今の三浦郡葉山町で自害したと言われています。
葉山町には岡部六弥太の墓が、平盛綱を討ち取ったものの
岡部六弥太と同じ理由で自害した猪俣小平六の墓と並んであります。



第9回   源義朝・為朝について
源義朝・為朝兄弟は源為義の長男と八男で、
保元の乱では兄弟が別れて戦うことになりました。
弟の為朝が引く弓はとても強力なものだったと伝えられています。
乱は兄の義朝がつく天皇側が勝ち、上皇側についた為義やその子達は
殺されることになりますが、為朝だけはその弓の実力のため、
腕の筋を切られて伊豆大島に流されることになります。
その後、伊豆大島には為朝追討の軍が送られて、
為朝は自害したと言われていますが、伊豆大島を脱出して
琉球に渡り、中山王朝尚巴氏の祖になったとする伝説もあります。
一方、義朝は藤原信頼に取り込まれて平治の乱を起こして平家に敗れ、
最期は自分の身内に殺されるという最期を遂げます。
ちなみに藤原信頼の兄、基成は奥州藤原泰衡の母方の祖父です。



第10回   源頼朝について
源頼朝は源義朝の三男で、鎌倉幕府初代将軍でもあります。
この頼朝は希義という同母弟がいて、平治の乱後は土佐に流されます。
そして、のちに頼朝と同じように挙兵して敗れて殺されているのです。
昔、頼朝の墓の土と希義の墓の土を交換するというイベントが行われました。
会えなかった兄弟を会わせるという意味で行われたのでしょう。
しかし、希義が挙兵に成功して頼朝に会えたとしても、
最終的には頼朝か北条氏によって殺されてしまうのではないでしょうか。
私はそのような気がしてなりません。頼朝は容赦なく弟を殺す人物です。
その一方、京都の朝廷から離れて政治を行うという頼朝の政治姿勢は、
平家の二の舞にならないための策で、頼朝の政治力の高さを示しています。



第11回   源範頼について
源範頼は源義朝の六男で、母は遊女だったといいます。
弟の源義経と共に平家追討にもあたっていますが、
義経にくらべてはるかに知名度が低いです。
あの吉田兼好も「義経にくらべて範頼は知られていない」と語っています。
私は義経の光る戦術も、この範頼あってのものだと思っています。
確かに範頼は「お前は源姓を名乗る資格はない」と頼朝に
言われたぐらいですから、戦は下手だったのでしょう。
でも、一の谷の戦いで平家軍の大半を引きつけた範頼の軍がなかったら、
きっと義経の鵯越えは成功していなかったと思います。
この範頼も最後は頼朝に疑いをかけられて殺されてしまうことになります。
私が住む横須賀市では範頼にちなむ伝説があります。
頼朝の兵に追われた範頼が、浜辺で地元の漁師の助けを借りて
兵を追い返します。そして、その浜辺は「追われ浜」と呼ばれ、
それが今の横須賀市追浜という地名につながったというものです。
また、範頼を助けた漁師は範頼の蒲冠者の蒲の字を頂き、
蒲谷と名乗るようになったといいます。



第12回   源義経について
源義経は源義朝の九男で、母は常盤御前です。牛若丸でおなじみです。
私は小さい頃、牛若丸の話を聞いて、
牛若の兄達はどうなってしまったのか不思議でなりませんでした。
調べてみると、今若こと上の兄の阿野全成は北条政子の妹と結婚しますが、
最後は謀反の疑いで殺されています。北条氏の計略とも言われています。
そして、乙若こと下の兄の悪禅師義円は墨俣の合戦で討死しています。
話を義経に戻します。義経は天才戦術家と呼ばれています。
確かに一の谷の鵯越や屋島の奇襲作戦などは、大変素晴らしい戦術です。
しかし、壇の浦で敵の船の漕ぎ手を狙ったりと
当時は卑怯とされる戦術も使っていたため、私はあまり好きではありません。
ちなみに平治の乱後、母の常盤御前は平清盛の側室になって、
子供も生んでいます。その子供は女子だったため公家に嫁ぎましたが、
もし男子だったら兄の義経と一戦交えることになっていたかもしれません。



第13回   源義仲について
源義仲は源為義の次男で、源義朝の弟の義賢の次男として生まれました。
父の義賢は義朝の長男の義平によって殺されてしまいます。
そして、義仲は木曾の中原兼遠に引きとられて育てられることになるのです。
平家物語では、京都に入った義仲を田舎者の武士として描いていますが、
私はいくらなんでもあそこまでひどくなかっただろうと思っています。
おそらく猫間中納言の話も作り話でしょう。
また、義仲の側室の巴御前は義仲が討ち取られた後、
和田義盛の妻になったという説がありますが、これは少しあやしいですね。
ちなみに義賢の長男の仲家は、源頼政に引きとられて養子となっています。
木曾の義仲は兄の仲家から京の情報を入手していたのかもしれません。



第14回   源頼政について
源頼政は摂津源氏・頼光流の流れを組んでいます。
平治の乱では源義平の挑発に反発して、平家方につきました。
したがって、乱後も家を続けることができましたが、
以仁王を擁立して反平家の兵を挙げ、敗れて自害しています。
この頼政は親をなくした源氏一族を集め、自分の養子として
育てていたようです。源義仲の兄の仲家もそのうちの一人です。
他には頼政の弟の頼行の子、兼綱がいます。
頼政の挙兵は結局、失敗に終わりましたが、
以仁王の令旨は全国の源氏一族に届けられることになります。
頼政は反平家の尖兵として、立派にその役割を果たしたとも言えます。



第15回   北条時政について
北条時政は源頼朝の舅にあたる伊豆の豪族です。
北条一族は三浦一族と共に挙兵時から頼朝の味方をしていました。
三浦一族は源平合戦で多くの手柄を立てました。
北条一族も時政の長男の宗時が石橋山の合戦で戦死しています。
したがって、鎌倉幕府が開かれると三浦一族と北条一族は、
御家人の中でも特に頼朝に重んじられることになります。
また、北条時政は目的はわかりませんが、
平家の生き残りを集めて自分の家来にしていたとも言われています。
これが本当ならば、平資盛の子孫が御内人になったことも納得できます。
平行盛の子を種子島に送ったのも時政だと言われています。
最後はこの時政も、自分の子供の政子と義時から
政権の座を追われることになってしまうのです。



第16回   和田義盛について
和田義盛は三浦義明の長男、義宗の長男で三浦一族の嫡流です。
ただ、父の義宗が若死にしたため、家督は叔父の義澄に渡って
庶子家となり、領地の和田を苗字とするようになったと思われます。
源平合戦でも活躍し、壇の浦の合戦では陸上から
弓で敵の船を攻撃して、敵の船の動きを封じる役目を果たしています。
義盛には強い子供が生まれるだろうと義仲の側室の巴御前を妻に迎えて、
朝比奈義秀という強い子をもうけたという話もありますが
義秀の生年から、この説はあやしいものであることがわかります。
この義盛も北条氏の策略にはまって乱を起こし、
一族もろとも滅ぼされるという悲劇的な最期を遂げることになります。



第17回   熊谷直実について
熊谷直実は平家物語では平敦盛の話で有名です。
それによると直実は、自分の子供と同じ歳くらいの敦盛を討ってしまい、
その供養をするために出家したと言われています。
史実でも熊谷直実は源平合戦後に出家しています。
しかし、その出家の理由は平家物語のように美しい話ではないのです。
実際は所領争いの裁判に敗れて、出家せざるを得ない状況に
追い込まれたからです。源頼朝に弓矢の的持ちを命ぜられ、
怒って出家したとする説もあります。
いずれにしても敦盛のことは、直実の出家と無関係だったようです。



第18回   那須与一について
那須与一は平家物語では扇の的の話であまりにも有名です。
与一という名は那須与一が十一男であったところからきています。
那須家では長男から九男までの与一の兄が平家方につき、
十男の兄と与一が源氏方につきました。
そして源平合戦後、与一は十一男でありながら
那須家の家督を継ぐことになります。
与一は扇だけでなく、家督までも射止めたのです。



第19回   崇徳上皇について
崇徳上皇は鳥羽天皇の第一皇子として生まれました。
しかし、鳥羽天皇は崇徳を自分の子供ではなく、
鳥羽天皇の祖父の白河法皇の子供だと思っていたようです。
したがって、鳥羽天皇は崇徳のことを「叔父子」と呼び、嫌っていました。
そのため崇徳は天皇になっても、すぐに退位させられてしまいます。
さらに、自分の子供も天皇にさせてもらえないのです。
こうして崇徳は藤原頼長に取り込まれて保元の乱を起こすことになるのです。
乱に敗れた崇徳は讃岐に流されることになります。
崇徳が流された讃岐の町は、京のような碁盤の目状になっていたそうです。
崇徳は自分を追い落とした者を恨み、呪っていたとも伝えられています。
この話が本当かどうかはわかりませんが、乱の後に京都で起こった天災を、
人々が崇徳と藤原頼長の怨霊と考えたことは間違いないようです。



最終回   後白河法皇について
最終回は後白河法皇です。後白河は鳥羽天皇の皇子として生まれました。
何代もの天皇にわたり、院政を行って朝廷に君臨し続けた実力者です。
その策略家ぶりは、おそらく日本史上最強でしょう。
源頼朝も、この後白河の策略にはまらないために京都に行かず、
鎌倉から動きませんでした。だから朝廷の官位をもらう義経が許せないのです。
後白河は官位を使って人を意のままに操りますから、本当に恐ろしいですよ。
実はこの後白河は歌を歌うことが大好きで、
歌の歌いすぎで喉を潰してしまったことが何度かあるほどです。
平家物語では様々な武士が出てきます。清盛、義仲、義経・・・。
彼らも結局はこの後白河に操られているにすぎなかったのかもしれません。
そして、後白河の策略にはまらず、操られなかったからこそ
頼朝は鎌倉時代という新しい時代を作れたのではないでしょうか。



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