Kijokazuの自分史


昭和56年9月9日 ●横須賀市小矢部にて自衛官の家庭に生まれる。3460g。その日の新聞の
一面の記事は「湯川秀樹死去」。退院後、御殿場市板妻の自衛隊官舎に移る。
昭和58年(2歳) ●官舎の2階から転落。父親に受け止められ、怪我をせずにすむ。
昭和59年(3歳) ●肺炎になり、横須賀市内の病院に入院。おもちゃを壊した父親に腹を立て、
病室に鍵をかける。病室に入れなくなった父親は、窓から病室に入ることになる。
父親は病院に迷惑をかけて申し訳ないと、私を勝手に病院から連れ出す。
その結果、病院に怒られて、病院から追い出される。
昭和60年(4歳) ●父親の転勤により、横須賀市の自衛隊官舎に引っ越す。
昭和61年(5歳) ●市内の幼稚園に入園。「明日は幼稚園を休め」と他の園児から脅され、
幼稚園に行くたびにつねられながらも我慢して通い続ける。
昭和62年(6歳) ●水疱瘡にかかる。当時は病気でよく幼稚園を休む体の弱い子供で、この頃から
運動は苦手であり、家の中でブロック遊びをするのが大好きだった。
●母親とボニー・ジャックスのコンサートに行く。ステージに上がることになり
ボニー・ジャックスと一緒に「オー・シャンゼリゼ」を歌い、サインももらう。
●運動会の鼓笛隊でピアニカを演奏。しかし、途中で音がわからなくなり、
最後の音の鍵盤に指を合わせ、最後の音だけ思いっきり鳴らす。
●運動会の大玉転がしで玉と一緒に転がる。
●スイミングに通い始めるが泳げるようにならず、中耳炎になり数か月でやめる。
●トランスフォーマーにハマる。
昭和63年(7歳) ●横須賀市立の小学校に入学。入学祝いに両親から宇宙の図鑑を送られ、
宇宙に関心を持つようになる。
●体育の授業参観で行われたドッジボールで、試合中にコートに横になって
ボールに当たり、母親に恥ずかしい思いをさせる。
平成元年(8歳) ●テレビでアンパンマンを見ていると、放送が中断されてニュースになり、
「よくわからないじいさん」の顔が映る。放送中断にひどく腹を立てたが、
のちにそれが昭和天皇崩御のニュースと知る。
●再び肺炎にかかり、2週間、自宅で療養する。以後、ぜん息に苦しめられる。
●自衛隊官舎から横須賀市内の母親の実家に引っ越す。
●学校の図書室で文字を読まなくなるという理由で、図鑑の貸し出しが
禁止になったことを理不尽に感じる。
●マラソン大会でビリを狙い、ゴール前で歩く戦術を取るが、先生に腕をつかまれ
無理やりゴールさせられる。
●珠算教室に通うようになり、満点で9級(全珠連)を取得する。
平成2年(9歳) ●数学に強い関心を持つようになり、図書室で数学の本を読みあさる。
●ユニット折り紙をやリ始める。
●運動会の徒競走で2等になる。体育は苦手でも当時は足だけは速かった。
●珠算8・7・6・5級(全珠連)を取得する。
平成3年(10歳) ●初めて泳げるようになる。夏休みに練習を重ね、犬かきで50mを達成する。
●学校の野球大会で、エラーが多いのを他の児童に怒られて何度も蹴られる。
そして、ついに我慢ができなくなり、バットを振り回して大暴れする。
●連立方程式を使わず鶴亀算を解き、「算数博士」と呼ばれる。
●クラスで劇を行い、クラスの大多数の推薦で博士役を演じる。
●課題で「ごんぎつね」の続編を書き、よく書けていると先生にえらく誉められる。
●運動会の障害物競走でネットを仰向けになってくぐり、目の前で見ていた祖母を
はじめとした家族に恥ずかしい思いをさせる。
●珠算4級(全珠連)を取得する。
●これからは英語の時代と思い、英会話を習い始める。
平成4年(11歳) ●鉄道ファンの児童と知り合う。その影響で、鉄道に強い関心を持つようになる。
特に京浜急行についていろいろと調べ、路線図を書いたりする。
●球の体積の公式を求めるのに躍起になって図書室にこもるが、すでに公式が
求められていることを知り、ショックを受ける。
●珠算3級(全珠連)を取得する。
平成5年(12歳) ●京成電鉄についても調べるようになり、汐入駅の駅員に質問したりする。
その内容は「博物館・動物園駅に普通電車は止まるのか、止まらないのか」。
●世界の国の名前を答えるテストで、解答用紙の白地図に全ての国の名前を
書きこんだため、先生が国の数を数えきれず、採点不能になる。
●日本史にも強い関心を持つようになり、日本の歴史の図鑑を買ってもらう。
●図書室に閉じこめられたり、自分の物がなくなったり、理科の実験でNaOHを
手にかけられたり、3階から落とされそうになったりし、学校に行くのが嫌になる。
●日光に修学旅行に行く。夜は眠ると他の児童が菓子で鼻の穴を詰めるため、
一睡もさせてもらえず、ぜん息の発作まで起こして散々な目にあう。
●珠算2級(全珠連)を取得する。
平成6年(13歳) ●横須賀市立の中学校に進学。この学校は厳しいことで有名だったが、そのこと
への不安よりも、嫌な小学校生活から解放された喜びの方が大きかった。
●美術部に入部。ちなみに入部当時、私以外の男子部員はいなかった。
●中学生になったのだからと塾に通い始めるが、自分には合わず1か月でやめ、
塾というものに対して否定的な考えを持つようになる。
●鉄道模型を初めて買う。初めて買った車両はEF66牽引の金帯あさかぜ。
●鉄道ファンとして学年で有名になる一方、クラスの女子からは鉄道の話ばがり
でウンザリだと言われ、嫌われる。
●虫垂炎で入院。薬で散らす。
●珠算1級(全珠連)取得に向けて練習に励むが、雨天により珠算の試験日に
中学の陸上競技会が重なり、珠算の試験を棄権する。
●市の読書感想画コンテストに「銀河鉄道の夜」で入選する。
●平家物語をはじめとした古典文学を図書室で読みあさる。
平成7年(14歳) ●学年末テストの翌日に再び虫垂炎になる。手術で盲腸を切り、入院。
●美術部に男子部員が新たに入り、うれしくなる。
●学校のキャンプで倉渕村に行くことになり、その事前学習で小栗上野介忠順
という人物を知る。彼の生き方に強くひかれ、自由研究も彼の研究をする。
●塾にいっている奴に負けじと必死になって勉強する。結果、学年トップになる。
周りからは「勉強ができなければ何もできない奴」とさげすまれる。
●英検4級取得。
平成8年(15歳) ●東北に修学旅行に行く。その道中、先生に持ってきた将棋を取り上げられる。
なぜUNOはいいのに将棋はだめなのかひどく理不尽に感じる。
●スポーツテストで100点満点中0点という点数を取る。ちなみに当時は
身長154cm、体重42kg。学年の男子でも3番目に背が低かった。
●母親の影響でチャゲアスの音楽を聴くようになる。
●入試勉強に必死になって、内申点におびえている周りの空気をひどく嫌う。
●英検3級取得。
平成9年(16歳) ●神奈川県立の高校に進学。定員割れだったため、勉強しなくても入れた・・・。
●今の侍り社の社員の方々と知り合い、仲良くなる。
●ものみの塔聖書冊子教会の信者と人間は神が創造したのか、猿から進化した
のかを討論し、信者の方が完全に創造論を信じきっていることに半ば感心する。
●世界の様々なボードゲームの歴史、ルーツについて調べるようになる。
●ついにスーパーファミコンを買う。幼稚園の頃からテレビゲームは欲しかったが
親が買うことを許さず、この歳になって初めて許可が下りる。
●化学教師と問題を解く上での解き方、考え方の違いで対立する。
●日本史研究を続けた結果、天皇の名前が全員言えるようになる。
●英検準2級取得。
平成10年(17歳) ●仲の良い友人の中で塾に対して否定的な考え方を持っている人が集まり、
「未塾児連盟」を結成。その副会長に就任する。学内の塾・予備校のパンフレット
の処分や、勉強会を開いて会員の学力向上をはかる等の活動を行う。
●クラスに勉強に対する考え方が全く相容れない人がいて、互いを敵視する。
彼とは試験、徒競走、マラソンとあらゆる場面で対決する。
●東北・北海道に修学旅行に行く。看板撤去工事中の北海道拓殖銀行函館支店
の前で写真を撮る。旅行中、中央省庁再編案の私案をまとめる。
●進路選択で理系にするか文系にするかを迷いつつも、理系の大学に進んで
文系の勉強はできるが、文系の大学に進んで理系の勉強をするのは難しい、
そして、鉄道好きが高じてリニアモータに関心があったので、理系を選択する。
平成11年(18歳) ●Z会の通信添削を始める。全ての答案を締め切りに間にあわせる。
●クラス替えで男子クラスになり、なかなか快適に感じる。
●会計監査委員長に就任し、生徒総会のときに塾・予備校反対の演説を行う。
●英検2級取得。その一方で「英語は地球語」という世間の風潮に疑問を感じる
ようになり、エスペラントに傾倒していく。
●顕正会という宗教団体から勧誘にあい、3時間も話すことになる。なかなか話を
やめないので、「私は21世紀の科学技術を背負う人間だ」と言って逃げ去る。
●指定校推薦で都内の某大学工学部電気系学科に合格。合格後の時間は
アルバイトをするでもなく、自動車免許を取るでもなく、エスペラントの勉強に使う。
平成12年(19歳) ●大学に入学。迷わず鉄道研究部に所属。鉄研の愉快な仲間達と知り合う。
●部の斡旋で、川崎市内の某博物館のライブラリでアルバイトをするようになる。
●大学で政治学の講義を聴き、政治に対してさらに強い関心を持つようになる。
●部の活動で電子工作を始め、なかなか面白いと感じる。
平成13年(20歳) ●パソコン購入。ホームページ制作を始める。
●民主党本部を訪問。民主党バッジを購入する。
●自動車免許を取ろうと自動車学校に通い始めるが、ほとんど上達せず、
このままでは費用ばかりかかってしまうので、1か月余りでやめる。
平成14年(21歳) ●成人式で昔の知人に久しぶりに会うが、できるのは挨拶くらいで話は続かず、
自分は他の人とはずいぶん違う人間になってしまったのだと大いに感じる。
●ワールドカップをきっかけに、サッカーに興味を持つようになる。
友人の影響もあり、鹿島アントラーズを応援する。
●政治ゼミを履修。選挙制度と市町村合併についての論文をまとめる。
担当教授からは「君は文系」というお言葉を頂く。
●民主党サポーターに登録。二大政党制の実現を願う。
●大学で第1希望のモータの研究室に配属が決定する。
平成15年(22歳) ●身分証明書としての運転免許証が欲しくなり、小型特殊免許を取得。
この日の二俣川試験場での受験者は2名だった。同日、携帯電話を購入。
●物理学者・長岡半太郎記念館にある「座ると頭が良くなる椅子」に座る。
●卒業研究として、超電導を利用したアクチュエータの研究に取り組む。
●学内推薦で大学院進学が決まり、研究漬けの生活が始まる。
●富士山に初登頂。御来光と雲の上からの景色に感激する。
●研究会と国際会議での発表が決定。電気学会に入会する。
平成16年(23歳) ●鉄道総研にて初の学会発表を行う。発表途中でレーザポインタを落とす。
他大学の学生に笑われたものの、無事に発表を終える。
●電気学会誌編集の学生委員に就任。積極的に仕事をこなす。
●卒業研究を終え、大学を卒業。学士(工学)の学位を取得。
●大学院に入学。センサレス鋼板浮上の研究に取り組む。
●イタリアのカプリ島で開催された国際会議にて、卒業研究の英語論文を発表。
初めての海外で、外に出て自分の国の見方が変わったことを実感する。
レストランのウェイターに10ユーロでイタリア語と日本語の対訳本を売る。
カプリ島のソローラ山に登頂。ローマの駅で荷物を取られそうになる。
●父親の故郷、高松で開催された電気学会産業応用部門大会に参加。
●諏訪にて学会発表。質疑応答で自分の研究が奇抜であることを知る。
平成17年(24歳) ●自分が取材・執筆を行った記事が電気学会誌に掲載される。
●電気学会より優秀論文発表賞を頂く。超電導アクチュエータの発表が対象。
●就職活動の結果、某電機メーカーより内定を頂く。名古屋勤務が決定する。
●鉄道研究部とOB会の連絡役を担当。記念列車イベントの運営に携わる。
●高知にて学会発表。多くの大学教員や学生、企業の方と知り合う。
●オーストリアのバート・ガスタインで開催された国際会議にて研究発表。
シンプルに考えることの大切さを知る。ザルツブルクとウィーンを観光。
●淡路島で開催された国際会議にて研究発表。アジア人に親近感を感じる。
●優秀論文発表賞の受賞者として、山梨のリニア試乗会に招待される。
人を速く運ぶことだけに特化した、輸送装置といった印象を持つ。
●沖縄にて最後の学会発表。修士論文のまとめを始める。
平成18年(25歳) ●卒業旅行で中華民国(台湾)に上陸。日本に近い印象を受ける。
●修士論文を提出して、大学院を修了。修士(工学)の学位を取得。
●勤務先の名古屋に引っ越す。社会人としての生活が始まる。
●マニアックな趣味を持つ同期とサークルを結成。一応、会長代理に就任。
●研修当初はなかなか周囲に馴染めず、気疲れすることが多かったが、
時間と共に徐々に理解され始める。同時に様々なエピソードを残す。
●気管支炎になり、苦しい思いをする。体に無理がきかなくなったと感じる。
●設計開発の部署に仮配属。希望していない部署で完全に想定外だったが、
食わず嫌いは良くないと、頑張ることを決める。
●中学校の同窓会に出席。3年間教わった恩師である理科教諭が、
私がエンジニアになったことを、とても喜んでいたことが印象に残る。
●自分の仕事内容や職場環境に対して、疑問を持ち始める。
平成19年(26歳) ●リクルーターに就任。研究室で会社や事業所の説明をする。
●電気学会に投稿した論文が掲載不可となり、悔しい思いをする。
●部署での不満が爆発して、うつに陥る。上司に部署替えを希望。
●部内異動が決定し、制御系のエンジニアとして再出発する。
●徳川美術館友の会に入会。地元の歴史イベントも訪問するようになる。
●会社の鉄道サークルに参加。懇親会や鉄道旅行で盛り上がる。
●開発のプレッシャーから、うつを再発。担当を外れることになる。
心療科の通院を再開して立て直す。主治医の先生とも仲良くなる。
平成20年(27歳) ●課の安全衛生委員に就任。メンタルヘルス活動への注力を誓う。
●日本産業カウンセラー協会に入会。民主党サポーターに再登録。
●会社の同期と旅行でアメリカ自治領グアムに上陸。
●仕事で英語文書の作成を担当。外国語の面白さを再確認する。
●安全衛生委員の職務に忙殺され、設計業務に取り組むことができず、
委員長との相性の悪さもあり、精神的に不安定になりかける。
平成21年(28歳) ●部内の若手社員の技術ランクがメールで流されてしまい、
自分の評価が最低ランクであることを知り、ショックを受ける。
●安全衛生委員を退任。設計業務に取り組めるようになる。
当初は副幹事に昇格予定であったが、上司が配慮してくださった。
●ハードウェア記述言語に興味を持つようになる。
●技術に対する熱意と自信を、少しずつ取り戻していく。
平成22年(29歳) ●精神的にも安定して、心療科の通院が終了となる。
●労働組合の委員に就任。週末も含めて、積極的に組合活動を頑張る。
●設計業務に専念できる環境が与えられ、やりがいを感じたのも束の間、
少しずつ押し付け仕事に追われるようになっていく。
平成23年(30歳) ●博物館明治村に行くことが多くなったので、住民登録を実施する。
●東日本大震災が発生。労働組合の委員として、募金活動を取りまとめる。
●押し付け仕事から抜け出せず、設計業務に取り組めない反動もあって、
ますますリクルーターと組合活動に力を入れるようになる。
平成24年(31歳) ●労働組合と会社の懇談会があり、会社側の取りまとめ役が因縁の相手で、
全身全霊をもって臨み、これを最後に労働組合の委員は任期満了となる。
委員会の出席率が高かったので、労働組合から表彰と留任の要請を受けたが、
燃え尽きたのと上司が難色を示したため、広報専門部員に横滑りとなる。
●縁があって、10月5日に入籍。退寮して、春日井に引っ越す。
この日を選んだのは、たまたま会社の平日休みで、市役所に行きやすく、
労働組合の委員をやり切って、結婚に踏み切る心積もりだったため。
●学生に前向きな話ができなくなり、リクルーターを後輩に譲る。
平成25年(32歳) ●今までは心のどこかで研究開発の仕事をしたい気持ちがあったが、
心の整理をして、自分自身にケジメをつけるため、電気学会を退会する。
●慣れ親しんだ部署からの部内異動を命じられ、抵抗するも、渋々従う。
●またしても因縁の相手との距離が近くなり、然るべき行動をとる。
●労働組合の広報誌に非拘束名簿式比例代表制の解説記事を投稿する。
●身内だけの結婚式を挙げる。新郎新婦は食事もできないことが多いが、
私の父親が一人で喋ってくれたおかげで、完食することができた。
●新婚旅行にも行かず、休暇も取得せず、結婚式の翌日から仕事を始める。
●昇進試験の受験資格を与えられず、仕事が遅く、結果が出ていないことを、
上司から遠回しに指摘されるも、さほど気にせずにマイペースを貫く。
平成26年(33歳) ●会社の大学OB会幹事に指名され、1年間の任期を全うする。
●日本産業カウンセラー協会を退会。メンタルヘルスへの関心は持ち続ける。
●上司が交代して、部署の雰囲気が変わり、自分の職務範囲も広がって、
2年連続で昇進試験の受験資格を与えられず、後輩に抜かされる等、
環境の変化が原因なのか、抑うつ的な気分に襲われることが多くなる。
●労働組合の広報専門部員を任期満了となり、別のポストを期待するも、
特に執行部からオフォーがなく、無役の組合員に戻る。
平成27年(34歳) ●仕事が回らなくなって、毎週の土休日出勤が常態化する。
●疲労のせいか浴室で眠ったり、朝に目が覚めたら、体が動かない等、
体調を崩すことが増えて、精神的にも追い詰められ、退職を考え始めるが、
その覚悟があるならば、何でも言いたいことは言おうと開き直る。
●3年連続で昇進試験の受験資格を与えられなかったが、どうでも良いと感じる。
平成28年(35歳) ●上司が交代して、自分の職務範囲も狭まり、少しは楽になる。
●健康診断で緑内障疑いとなり、検査入院の結果、大事はなかったものの、
視力があるうちにとの思いが強まり、構想10年のゲームシナリオを完成させる。
●4年連続で昇進試験の受験資格を与えられなかったが、会社で言いたい放題、
「出世と家と子供を諦めたサラリーマン」になり、気にする必要がなくなる。
●人生3度目の肺炎にかかり、41℃近い高熱を発して、妻の判断で救急搬送、
10日間の入院となったが、今後の人生を考えるきっかけになる。
●ワークライフバランスとは会社から与えられるものではなく、減給も受け入れ、
折り合いをつけながら、自ら獲得するもので、仕事を捨ててでも健康を大事にし、
趣味と家庭に生きがいを求めていく決心をして、現在に至る。


戻る


inserted by FC2 system