第1回   大正天皇(嘉仁親王)
明治天皇と昭和天皇の顔は知っているけど、
大正天皇の顔は知らないという方は多いのではないでしょうか。
大正天皇は明治天皇の第3皇子として明治12年8月31日に生まれました。
一般に知られているのは生まれつき病弱だったということでしょう。
帝国議会で詔紙を巻いて遠眼鏡のようにして議員席を見回したという話から、
大正天皇は脳を患っていると聞いたことがある方は多いと思います。
子供の頃の大正天皇は確かに病弱でした。
病気で勉強がなかなか進まなかったといいます。
しかし、結婚後は皇太子として沖縄を除く日本の全ての道府県をまわり、
大韓帝国にも行ったりと、すっかり健康になっています。
思ったことをすぐ口に出す性格で、国民と話をするのが大好きでした。
道にいた小さい子供に「いくつになる」とたずねたり、
学習院時代の友達の家で話をしすぎて、行事に遅刻したという逸話もあります。
また、子供を非常にかわいがり、昭和天皇をはじめとした4人の皇子とは、
鬼ごっこなどをしてよく遊んだといいます。
趣味は非常に神経を使うビリヤードでしたので、
このことから脳を患っていたわけではないことがわかります。
天皇即位後から病気がちになり、しだいに病気が重くなっていって、
大正15年12月25日に47歳の若さで崩御しました。
「大正天皇」(原武史著・朝日新聞社)という本を読むと、
大正天皇のことがよくわかると思います。
大正天皇は、このように人間味あふれる天皇だったのです。



第2回   小栗上野介忠順
小栗上野介忠順という名前を聞くと、徳川埋蔵金を思い出す方は多いと思います。
勘定奉行として幕府の金銀を隠す指揮を取ったとされているからです。
しかし、当時の幕府に隠すほどの金銀があるならば、
外国から借金するのに苦労しなくてもよかったということになります。
私は徳川埋蔵金はないと思っています。
そして私にとって徳川埋蔵金以上に魅力を放っているのは、小栗の生涯なのです。
小栗は幕末に名門旗本の子として生まれ、勘定奉行などの要職を歴任します。
金を工面する能力にたけていた小栗に、勘定奉行という役職はうってつけでした。
また、江戸幕府の使節としてアメリカに行き、
日本に不利な為替レートを改正する交渉を、見事に成功させています。
小栗は初めてアメリカに、NOと言った日本人ともいわれています。
そして、その後は世界一周をして日本に帰ってきて、
初めて世界一周をした日本人の一人となりました。
帰国後の小栗は横須賀の造船所建設の責任者になります。
この頃の彼は、江戸幕府が近いうちに滅びるとすでにわかっていたようで、
日本全体の将来を見すえて、造船所建設を推進していたのです。
小栗は薩長をはじめとした官軍に対して、主戦論を唱えていたので、
江戸城を開城すると決まると、自分の領地の倉渕村に引きこもってしまいます。
その後、小栗を危険人物とみなす官軍によって殺されてしまいました。
小栗の作った造船所は明治の世でも使われ、数々の船を生み出すことになります。
あの東郷平八郎は、小栗の娘に礼を述べに行ったといいます。
また、この小栗の縁で神奈川県横須賀市と群馬県倉渕村は友好都市となっています。



第3回   木村摂津守喜毅
はじめて太平洋を横断した日本の船である咸臨丸の艦長は、勝海舟でした。
では勝海舟は咸臨丸の中ではトップだったかというと、実際はそうではありません。
艦長の上に提督という役職があったからです。
その咸臨丸提督だったのが、この木村摂津守喜毅なのです。
木村は江戸時代末期、名門旗本の家に生まれました。
そして、船についての勉強を重ね、軍艦奉行を務めました。
実は勝海舟は咸臨丸の中では船酔いに苦しみ、
ほとんど働くことができませんでした。
木村は咸臨丸提督として、しっかりと職務をこなしているのです。
しかし、歴史の教科書には咸臨丸の話が出てきても、
勝海舟の名前は記されていても、木村の名前は記されていません。
これは理不尽な気がしてなりません。
この咸臨丸には一万円札でおなじみの福沢諭吉も乗りこみました。
アメリカに行きたい福沢は、この木村の従者という形で、咸臨丸に乗ったのです。
福沢は明治時代になっても、木村が自分の家来という形で
咸臨丸に乗らせてくれた、その恩を忘れませんでした。
明治時代の木村は、ゆっくりと過ごしていたといいます。
そして木村が年を取ると、福沢もいろいろと世話を焼いていたそうです。
この木村摂津守喜毅は、一万円札の福沢諭吉に、終生慕われた人物なのです。
もし彼がいなかったら、一万円札は福沢諭吉ではなかったのかもしれません。



第4回   勝麟太郎義邦(海舟)
勝麟太郎義邦(海舟)はあまりにも有名です。
もともと彼の祖先は武士ではありませんでした。
彼の祖先が御家人の株を買って、武士になったといいます。
そして、そのような家に生まれた勝は勉強をして、
江戸幕府でその地位を上げていきます。
勝も確かに偉いところはあるのですが、私は勝のライバルと言われる小栗や
勝に手柄を取られた木村の方が好きですので、彼はあまり好きではありません。
明治時代、勝家は華族となり、伯爵となります。
勝は一人息子が自分より先に亡くなってしまっていたため、
一人息子の娘、すなわち自分の孫娘に婿を迎えて養子としました。
その婿とは江戸幕府最後の将軍、徳川慶喜の末子、精です。
しかし、勝の死後、養子の精は妻以外の女性と心中自殺してしまいます。
勝は明治の世では華族の身分になり、徳川家から養子まで迎えますが、
最後はこのようなことになってしまったのです。
自分は殺されても娘が東郷平八郎から礼を述べられた小栗や、
手柄を勝に取られても福沢諭吉から慕われた木村とは対称的で、
ずいぶん皮肉なものだなあと私はつくづく思ってしまいます。



第5回   中島三郎助永胤
この中島三郎助永胤は、あのペリー率いる黒船に最初に乗り込んだ日本人です。
中島は浦賀奉行所の与力で、木鶏という号を持つ俳人でもあります。
幕府高官としか会わぬという強硬な態度のアメリカ側に対し、
浦賀奉行所副奉行と身分を偽って乗船を果たしています。
浦賀奉行所には副奉行という役職は存在しません。
アメリカ側は、この中島を「密偵のような男」だと感じていました。
なぜなら中島は洋式軍艦に強い関心を持っていて、
黒船の様子を隅から隅まで観察していたからです。
のちに中島はこの経験を生かして鳳凰丸という日本初の洋式軍艦も建造しています。
また、船について学ぶために長州から桂小五郎(のちの木戸孝允)が訪ね、
中島の屋敷に住みこんで、中島から船の教授を受けたという逸話もあります。
江戸城開城後、中島は榎本武揚率いる幕府海軍と共に箱館に渡り、
箱館戦争で息子の恒太郎、英次郎と共に戦死することになります。
その一方、榎本武揚に新政府軍へ降伏するよう勧めていたといいます。
時代を見据えながらも最後まで幕府への忠義を貫いたのです。
中島率いる浦賀隊は全滅するまで戦いました。
その地は中島町という名がつけられています。
ちなみに中島の末子の与曽八は、のちに帝国海軍中将にまでなっています。



第6回   堀達之助
堀達之助は浦賀奉行所与力の中島三郎助と共に
黒船に乗り込んだオランダ語小通詞です。
長崎ではアメリカ漂流民、ラナルド・マクドナルドから英語も学んでいました。
この堀が黒船に向かって話した英語が日本を大きく動かすことになります。
”I can speak Dutch.” 「私はオランダ語を話すことができます。」
当時の堀は英語を学んでいたとはいっても、これを話すのが精一杯でした。
しかし、堀のこの英語のおかげで、オランダ語が話せるアメリカ人を介して
アメリカ側と会談ができるようになったのです。
のちに堀はドイツ人商人から渡された下田奉行所宛ての書状を
奉行所に差し出さなかった罪を問われて投獄されることになります。
堀が投獄された牢獄には吉田松陰もおり、親交があったといいます。
牢獄から釈放された後の堀は英語辞書の編纂に務めました。
英語辞書を初めて編纂した日本人は、この堀なのです。
その後、箱館奉行所に勤務することになり、
幕府崩壊後は奉行所は新政府に明け渡されて、新政府に仕えることになるのですが、
今度は榎本武揚率いる幕府海軍により箱館から追い出されてしまいます。
この幕府海軍には共に黒船に乗り込んだ中島三郎助も参加していました。
明治維新後の堀は子供の家で静かに暮らしたそうです。
堀のような通詞の活躍なくして幕末の荒波はのりきれなかったのではないでしょうか。



第7回   明智十兵衛光秀
惟任日向守ともいいます。織田信長を討ち取ったことで、あまりにも有名な人物です。
この本能寺の変では、明智の一族郎党からは裏切り者や密告者は出ませんでした。
光秀は家来が戦で負傷すると、必ず見舞いに行ったといいます。
このように律儀でやさしい性格だったため、家来から慕われていたのです。
また、大変な愛妻家だったと伝えられています。
光秀の妻は疱瘡で顔にあばたができてしまったため、
実家は代わりに妹を光秀に嫁がせようとしました。
しかし、光秀はそれを断って姉を妻に迎えたのです。
光秀の妻も立派な人物でした。光秀が浪人中、金に困っていると
自分の髪の毛を売って金を工面しました。
光秀は妻に大変感謝して、側室は持たないことを誓ったといいます。
史実でも光秀に側室はいなかったとするのが通説です。(数名、いたとする説もある)
この光秀の親戚には有名な人物がたくさんいます。
まず、織田信長の正室の帰蝶(濃姫)とは従兄妹でした。
徳川家光の乳母になった春日局は姪孫にあたります。
そして、坂本竜馬は光秀の娘婿、明智秀満の子孫という説があります。
坂本竜馬が光秀を慕っていたのは、坂本家が明智ゆかりの家だったからなのです。
あの時代劇でおなじみの名奉行、遠山金四郎も光秀と親戚です。
優秀な武将で、教養もあった光秀。歴史上では敗者になってしまった光秀ですが、
その人間像がもっと世に知られてもよいのではないかと、私は思っています。



第8回   大谷刑部卿吉継
大谷刑部卿吉継は奉行として豊臣政権を支えた武将です。
元は大友氏の家臣だったといいます。あの石田三成とは竹馬の友でした。
吉継は豊臣秀吉亡き後、徳川家康に近づいていましたが、
友の三成から家康討伐の計画を聞かされ、三成は家康に比べて人望がないこと、
信頼できる家来が少ないことなどをあげ、計画の無謀さを説きましたが、
三成の決意の固さを知り、友と共に戦うことを決意しました。
吉継は当時、ハンセン病に冒されていて、目もほとんど見えませんでした。
吉継と三成の間には次のようなエピソードが伝わっています。
ハンセン病は顔面が変わってしまう病気のため、
感染者だった吉継は、他の大名から気味悪がられていました。
しかし、三成だけは吉継が使った湯飲みで茶を飲んだりと、
全く偏見の目を持ちませんでした。吉継はそれに大いに感激したといいます。
関が原で西軍につくことを決意した吉継は、馬に乗れないため輿に乗って出陣し、
小早川秀秋の陣に最も近いところに布陣しました。
そのため、最後は小早川の猛攻を受け、自害するに至りました。
吉継は戦国時代には珍しい義理堅い武将でした。そこが彼の魅力でもあります。
ちなみに吉継は、あの真田幸村の舅でもあります。
親友思いで義理堅い吉継の生涯は、数ある戦国武将の中でも光を放っています。



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