平成15年8月27日

先日8月22日は向田邦子の命日であった。
新潮社からめーる便で送られてくる拡材をそのまま用いてささやかながらも「フェア開催」と銘打ってデコレーションし、販売促進に努めていたわけだが、 命日はあまりにもあっさりと過ぎ去り、今以って幾らかの再燃しつつある向田熱をどの程度捉えているのか、メディアで取り立てて何か特集するような様子が あまり見られなかった。働いている書店の外側の鮮烈な空気と水色の過去に、向田邦子の乗った飛行機は音も無く躊躇無く落ちていく。
 ヒロシマ・ナガサキに原爆が投下された6日・9日。15日の終戦記念日と続いて、命日は日々繰り返されていく。再浮上して、また再沈下していく。 今日8月23日だって、中学時代の後輩の誕生日で、過去というものはたまらなく寂しさを外骨に塗りつけてくる。こういうことを思う日は 決まって晴れやかな快晴の透明な水色の世界であって、あたかもそれは死者を迎え入れる湖のようで、過去っていうのはやはり今現在あっさりし過ぎている様な、 という疑念が拭えません。浮遊感溢れる現在の、その重力を望まれる未来へと作用させるために、より一層の社会の努力があっていいと思う日々です。 特に政治家にそれを望んでいるのですが、果たして劇場政治にそれは為し得るのでしょうか。はなはだ不安ですが、夏はまだまだ続きます。草々




平成14年1月13日

煙草規制の動きに対して思うこと


問題設定:

「運動に対するそれぞれの立場への疑問」

 喫煙は今日、人の死因のうち予防可能な最たる物であり、煙草に起因する病気で年間400万人以上がなくなっているらしく、 WHOを中心に煙草抑制の必要性が議論の対象として頻繁に登場するようになった。
 私が喫煙に対して主張する立場は否定的なものだが、私が喫煙を否定するのは健康への被害を及ぼすという点ではない。喫煙の排除を実行する 喫煙反対側の人間の主張に対して疑問に思うところがある。そして、今後排除される側となるだろう喫煙擁護派の主張に対しても疑問に思う点が多い。 両者はお互いに何を主張するべきで、世界は喫煙に対してどう対処すべきなのだろうか。


議論:
「私的な立場より主張すること」

 私は煙草の存在が許せない。けむいし、臭いに耐えられないし、目が痛くなるし、頭が痛くなるし、咳が出る。集中力が低下する。 喫煙者に対して、激しい憤りを覚える。ストレスを感じる。それによって喫煙者を排除したいという欲求が生まれるのだ。健康を害されるのが嫌だからではない。 この点で嫌煙者の主張は世界的な誤解を受けていると考える。私は、喫煙が他人の健康を害するという事実は、煙草規制に向けての実行者側の武器でしかない。 また、嫌煙者側が強力な嫌悪感によって運動が加速している煙草の排除運動は、捉え方によれば弾圧であり、喫煙者の権利を侵害するものとも解される。 喫煙者も嫌煙者もともに生活する人間であるので、両者は相互に譲歩をしあい、理解し合うべきであり、目指すべきところは共存であるべきだ。


「喫煙者の主張に対して」

 概して、喫煙者は嫌煙者の苦しみを過小に認識していると思う。喫煙者は、煙草は嗜好品であり、それゆえ喫煙は個人の自由であると主張する。 さらに、健康を害するという批判に対して、ほかにも健康を害するものが数多く存在するといい、迷惑だという批判に対しても、ほかにも迷惑を感じるものがあるだろうという。 嫌煙者に対して、神経質なだけだと思っている人間も多くいるようだ。さらに彼らは、自分たちが批判されるのは、それら以外にマナーを守らないからで、 マナーを守れば何も問題はないという捉え方をする。
 嫌煙者が神経質であるのではなく、喫煙者が鈍感なのであり、喫煙者は喫煙が嫌煙者にとって、どれだけつらいものなのかを理解することができない。 以前喫煙をしていて、現在は吸っていないという人の意見で、煙草の煙がこんなに臭い物だとは思わなかったと言う人が多いのも、その根拠のひとつである。
 煙草は他人に多大な被害をもたらすという点で、もはや嗜好品と呼んでいいものではなく、個人的な欲求で片付けていいものではないように思う。 マナーを守らないから批判されるのではなく、嫌煙者が苦しいから排除の対象になるのである。健康を害するから批判を受けるのではない。 喫煙を批判しようとした際に浮き上がってくる事柄が、他人への健康被害なのである。迷惑がかかるから批判を受けるのではない。 喫煙を批判するに至る過程に嫌煙者の喫煙を迷惑だと思う感情があるのである。喫煙を批判している場において、健康を害するその他のものや、 他人へ迷惑をかけるその他のものを提示することは無意味である。


「嫌煙者が注意すべきこと」

 嫌煙者は概して、煙草の被害がどれだけのものであるかを科学的な証明をよりどころに喫煙者および、煙草を批判する。
 嫌煙者は、本当に健康を害するから煙草を批判するのだろうか。そうではないように思う。もちろんそれを理由に批判するものも多くいるだろうが、 それは比較的喫煙に対して感じる苦痛が少ない人たちであるというだけだ。にもかかわらず、煙草規制運動を推進する側の武器がどれだけ健康を害するかという 科学的な根拠しかない。喫煙者の理解が得にくく、喫煙の抑制に長い時間がかかっている原因がそこにある。そのせいで、 世界的にも健康を害するからこそ嫌煙者が存在し、喫煙者の排除を希求するのだと思い込まれているようだ。
 嫌煙者は自分の意見の原因を正確に捉えなければならないという他に、喫煙者の主張も正確に捉えなければならない。 でなければ、過剰な排除運動が引き起こるだろうし、相互に理解が無いために相互的な排除がおこり、人間関係の崩壊を促すことになってしまう。 嫌煙者は、喫煙者を排除したいのではなく、煙草を排除したいのだということを忘れてはならないと思う。


「社会はどうすべきか」

 必要なのは相互理解である。嫌煙者には喫煙者側の依存症をはじめとする吸わざるを得ないという感覚、吸いたいという欲求を認める必要があるし、 喫煙者は、嫌煙者がどれだけ苦しんでいるかを認識する必要がある。
 相互に理解することで、必然的に両者の譲歩が起こり、両者の納得のいく煙草規制が実現するだろう。お互いが偏見を持って相手を見ることは許されないことである。 今求めるべきなのは、強圧的な規制ではなく、両者の主張の正確な把握なのである。




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